昭和五十六年三月二十六日 朝の御理解


御理解第三十八節 「こりをとると言うが、体のこりをとるよりは心のこりをとって信心せよ」


 肩がこると申しますね。あんまり力んだりしますとね、肩がこります。角力好きの人が角力見物に行きますと肩がこります。自分までこうやって力んでるからです。
 私は思うのに、こりを積まんで済むということは、信心を頂いて本当に教えに基づいた生き方をしておらなければこりを積むと思うですね。いうならば、私共が人情を捨てて神情に生きぬく信心。
 まあそれを一番簡単に表現しておるのが、合楽では成り行きを大切に、いやむしろ成り行きは尊んで頂くべきだという、そういう生き方からもういよいよこりを積まんで済むようになります。神ながらな生き方が出来ているのですから、たとえこりを積むようなことがそこにあっても、それも神ながらとして受けることが出来るからです。
 三井教会初代荒巻弓次郎先生が、今の学院ですよね。を卒業になっていよいよ帰られる時に、教祖様の奥城で一心に御祈念をなさって、これからの布教の芯ともなる御教えを頂きたいというて、一晩中御祈念をなさったということです。そして受けられた御教えは、「こりを積むな、こりを積ますな、身を慎め」とあったそうです。「こりを積むな、こりを積ますな、身を慎め」と。
 ですからね、段々おかげを頂いて、自分自身がそんなことでは全然問題が問題じゃないような成り行きを尊んで行きよれば、これが神ながらだと思うから、こりを積まんで済むんですけれども、人がこりを積むことがある。例えば隣の人がどんどん儲けだして蔵が建った、家が建ったちいうと、隣の人が腹を立て、隣のもんがもうこりを積んでいるわけです。
 ですから、積ますなということはこりゃあ大変難しいことですけれども、たとえ、周囲にこりを積ませても、そのことがこちらに一つも響いてこない。そのことによってこちらがこりを積むようなことがあってはならん。
 これは私はいよいよ成り行きを尊ばせて頂く。大切にさしてもらう。そこから、言うなら起きてくる総てが神ながらのこととして受けていますから、こりを積まんで済むのです
。段々おかげを頂いて参りますと、言うならば力まんで済むわけです。だからこりを積むようなことはございません。
 数年も前に頂いた御教えの中に、「人力に見切りをつけて、神力にすがれ、人力自ずから湧く」人間心を使わんからというて、人間的精進・努力というようなものはいらないかということではないのです。人力を捨て切って神力一本にすがる。なら、もう成り行きを尊び大切にさして頂くという一本に絞らせて頂くとね。そこから湧いてくる人力というものは限りがないほどのものなんです。
 一つそのこりを、例えば水行なんかのことを水ごりと言う。水ごりをとってとこう言う。そういう意味もありましょう。そういう意味でのこりを取るというような修行ではなくて、「心のこりを取って信心せよ」とこう教えてある。
 その心のこりを取るということは、人情・人間心の強い人ほどこりを積みます。また人に積ませます。だから人間心を取る。人間心ではいけん。人間心ではいけないと言うだけでは駄目。いよいよ教えの実験実証である。言うならば日々が成り行きを尊ぶ、大切にさせて頂く。実験実証が頂いて行く限り、起きてくる総てのどういう限りであっても、普通ならこりを積むようなことであっても、それを神ながらとして、言うなら合掌して受けて行くことが出来る。尊んで受けて行くことが出来る。そういう心で信心をするのです。
 「こりを取って信心せよ」とこう仰せられますね。それにはまず私共の人間心を振り捨てて、もうそれこそ神力一本、御教え一本、言うなら合楽理念のいよいよ実験実証たらん願いを持つこと。そこから自ずと湧いてくる人間に、いわゆる人力である。こりゃあ限りがない。
 人力に、信心さして頂くならまずは見切りをつけて神力にすがらせてもらい、神様任せの信心生活とはこんなにも尊いもんだということが分からしてもらう。そこから湧いてくる人力は、また限りないおかげの頂ける力として受けることが出来るんですよね。
どうぞ。